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2013-10-16(Wed)

キリング・フィールド/狂人独裁者に支配された悲劇のカンボジア

1984年 イギリス
THE KILLING FIELDS1970年代の内戦中のカンボジア。実在の通訳兼現地人ジャーナリストのディス・プランとアメリカ人ジャーナリストのシドニー・シャンバーグとその仲間達の実体験に基づく物語です。この内戦に至るまでの背景には様々な国や国内の権力者による政治的思惑があり、それに翻弄されたカンボジアの苦難と悲劇を描き出している。過激な映像があり苦手な方にはあまりお勧めできません。物語の展開は早く、当時の政治的動向を把握していないと細かな所までは理解しづらいかもしれません。残念なことに効果音楽と選曲のセンスがイマイチです。しかし、プランを演じたハイン・S・ニョールの演技は群を抜いて見事です。この方は本人のブランと同じく当時カンボジアにいて、ポル・ポト政権下を生き延びた人物であり、彼の記憶が演技に反映されているかのようです。そして、カンボジアの当時を知る上でも非常に貴重な作品といえます。
[背景]
カンボジアは第二次世界大戦前はフランスにより植民地化されていた。当時は食料輸出国として豊かな国であった。戦後の1953年、王位を持っていたシアヌークはフランスからの完全独立を果し国王に就任。カンボジア王国が建国され社会主義国となる。シアヌークは「独立の父」として国民の尊敬を集めた。しかし独立を果たした直後からクメール・ルージュはその政権の座を狙っていた。シアヌークは共産主義を容認してはいたが、カンボジア共産党の急進派に弾圧を加え都市部から追い出した。その左派の指導者達は逃れたジャングルで、武力闘争に走ることとなる。この中にクメール・ルージュであるポルポト派も含まれていた。シアヌークは、当時のベトナム戦争で南ベトナムが勝利すると、自国が脅かされる恐れがあったため、南ベトナムよりのカンボジア国内に、北ベトナム軍の基地を作る事と軍の駐留を認めていた。これにより、後にカンボジアはアメリカによる激しい空爆を受けることになる。

1970年3月、シアヌークはクメール・ルージュではなく、首相兼国防相の、ロン・ノル将軍が率いる反乱軍によるクーデターにより政権は奪取された。ロン・ノルは大統領に就任し国名は「クメール共和国」と改められる。このクーデターは、シハヌークが「容共主義者」であったため当時懸念されていた「ドミノ理論」(貧困地域で、1つの国が共産主義化するとドミノ倒しのように周りの国々も共産主義化する)により、カンボジアが共産主義化する事を阻止する為に行ったアメリカの策略であった。

カンボジア人は、フランスによる植民地時代の前はベトナムからの圧迫を受けていたため、ベトナムとは非常に仲が悪かった。ロン・ノルは、国民の支持を得るために国内のベトナム人を弾圧した。そしてアメリカは表向きはベトナム人保護を掲げながらも、南ベトナム解放民族戦線(共産主義)とアメリカ軍でカンボジアに出兵する。アメリカの真の狙いは、カンボジア国内に潜伏している共産主義勢力を攻撃することだった。アメリカ軍は北ベトナム軍の基地と共産主義者が潜伏していると思われる農村部を空爆。これにより30万人以上のカンボジア人が死亡。200万人以上が難民となり都市部になだれ込む。アメリカの後ろ盾により政権を得たロン・ノルはアメリカの空爆を容認していた。そのため国民の反発は強まり「クメール・ルージュが指示されるようになってしまう。

一方、政権を奪われたシアヌークは亡命先の北京から密かに帰国し政権を奪回するため、かつて弾圧したクメール・ルージュと手を組んでしまう。クメール・ルージュ側としては国民の支持を得ている王を利用しない手は無かった。国民の支持とシアヌークを手に入れたポルポト率いるクメール・ルージュはロン・ノル政権を打倒するために武力闘争を開始しカンボジア内戦が始まった。

カンボジアの大地はアメリカにより徹底的に破壊され、食料輸出国で豊かであった国内は飢餓の国と変貌してしまった。1973年、隣国で起きていたベトナム戦争は北ベトナムの勝利に終わり、アメリカ軍は南ベトナム民族解放戦線ともにカンボジアを破壊するだけ破壊してさっさと撤退した。しかし政府軍とシアヌークを取り込んだクメールルージュの内戦は終わるはずもなかった。

[あらすじ]
1973年8月、ニューヨーク・タイムズ記者のシドニー・シャンバーグはこの取材の為に首都プノンペンに降り立った。シャンバーグは空港で待っているはずの現地人のプランがいなかった為、一人でタクシーに乗りホテルへ向かった。ブランはというと少し前に、事件を聞きつけ空港を離れていた。シドニーはブランからアメリカの空爆により、ニェクロンという町で多くの死傷者を出したことを聞く。この空爆はアメリカの誤爆であった。プランとシャンバーグは町に取材に向かった。取材中、政府軍がクメールルュージュの捕虜を射殺する際に現場にいた二人は政府軍に捉えられてしまう。やがてアメリカの手配により釈放されるが迎えに来た知人の大使館員と軍人から非難される。当初より現地滞在のアメリカ人は取材に対し非協力的であった。しかし1975年3月、取材の記事はニューヨークタイムズの1面に掲載されることになる。

同月、クメール・ルージュのプノンペンへの進攻が迫り、占領の直前外国人や政府関係者は、国外へ次々と出国していく。プランの家族はシャンバーグの手を借りて無事にアメリカへ飛び立った。1975年4月17日にクメール・ルージュはプノンペンを占領した。ロン政権はアメリカの援助も叶わず崩壊、ロン・ノルは国外へ亡命する。内戦により苦しんでいた国民は、シアヌークを取り込んだクメールルージュが勝利して内戦が終わり、今度こそ平和が訪れたとクメールルージュを歓迎した。

これを胡散臭いと考えたシャンバーグ達5人は、病院に取材に出向いた。そこにはクメール・ルージュの命令に抵抗した人々の遺体と怪我人で溢れていた。現場を離れようとしたとき彼らはクメール・ルージュの兵士に捕まってしまう。目の前で政府軍の兵士を殺害しているその場所で、プランはクメール・ルージュの兵士に必死に仲間を助けて欲しいと頼み込んだ。そしてどうにか全員が無事に解放された。

終戦で国民が喜んでいるのもつかの間、政権を奪取したポルポトは、シアヌークを軟禁。国名は「民主カンプチア」と改めた。そしてポルポトによる虐殺政治が始まる。ポルポト政権は数日のうちに都市部の住民を農村部へ強制移住させた。解放されたシャンバーグ達が町で見たものは、強制的に財産も家も没収され、着のみ着のまま農村部へ移動する人々の行列であった。

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その足で彼らは最後の避難所であるフランス大使館へ逃げ込んだ。フランス大使館には外国人と200人ほどのカンボジア人もいたが、すぐにカンボジア人はふるい落とされることとなった。大使館にいたカンボジア人は、ブランも含めてタイへ非難しようとしていたが、同僚の記者達は、パスポートを偽造して自分達と一緒に出国させようとブランを引き止めた。しかし、偽造したパスポートは写真が消えてしまい失敗。 非難するにも時既に遅く、ブランは、一人大使館を出て行き、クメールルージュによって農村部へと送り込まれてしまう。シャンバークたちは無事に帰国したが、プランにとっても、カンボジア国民にとっても、アメリカの空襲などと比較にならない狂気の始まりであった。

ニューヨークに戻ったシャンバークは、プランの身を案じていた。ブランの消息が判らなくなり手を尽くしていたが情報は何も入ってこなかった。そんな中、ブランと共に取材したカンボジアの記事は1976年のピューリツッァー賞を受賞した。シャンバーグは演説で賞の半分はブランのものであり、カンボジア爆撃と侵攻を決定した政府要人たちは政略に利用しただけと非難した。そして記者としてその代償だけ払わされた人々の事を人類に提示したかったと告げた。しかし、このときカンボジアで起きていたさらなる地獄を誰一人知るものはいなかった。

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ポルポトは、国民を農村へ移住させ強制的に農作業をさせていた。プランは、かつて記者であり通訳をしていたことを隠し労働していた。  何故ならポルポト政権は「世界に階級や格差が存在しない」という「原始時代的思想」であった為、知識人は、人々に格差をもたらすものと、資産家、医者、教師、学生、僧侶などの知識人を「国家の再生の為に必要」と呼びかけて名乗り出させ、殺害するか強制収容所に送り、その殆どを死亡させた。これは同時に将来、反逆者になりえる可能性の有る人材を一掃するためだった。そして「原始共産主義」を理解するとして、子供を収容所の看守や医者、兵士にした。殺戮はエスカレートし眼鏡をかけている者、手が綺麗な者、農作業の手を休めた者、挙句の果てには容姿の良い者、それらの人々は一族ぐるみで殺される。そんな人々を殺す者の中には、ポルポトの思想を埋め込まれた子供も大勢いた。 そんな集落からプランは脱走に成功する。

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逃亡したブランの行く先にあったもの、それは数え切れないほどの朽ち果てた人間の死体、彼の視界には戦慄の地獄が広がっていた

それでもブランは歩き続けた。疲れきり、倒れていた彼を見つけたのは他の部落の男だった。ブランはこの男の家で子供の面倒を見たり身の回りの世話をして働くようになる。ここでも同じように、何かにつけて人々は殺されていたが、主人であるこの男は次第にブランに信頼を寄せるようになる。男は息子と二人であったが、かつて革命を夢見て、クメール・ルージュのメンバーになり、妻も革命で亡くしていた。きっと彼はこう思っていたのだろう。「こんなはずじゃなかった」と。幼い息子の衣服に、タイの難民キャンプまでの地図とお金、亡くなった妻の写真を隠しブランに届けた。息子をブランに託したのだ。男は「殺しをやめさせる」と仲間のところに行くとあっという間に銃殺される。

ブランは託された少年を連れ、数人の仲間とともに村を脱出した。しかし無念にも、途中で地雷により少年は死亡してしまう。ブランは子供の亡骸を葬り再び歩き出した。そして、彼はタイの難民キャンプにやっとの事でたどりついた。知らせを受けたシャンバーグは、すぐにタイに飛びたち、二人は再会を果たしたのです。

[あとがき]
その後、ブランはアメリカの家族と再会し、記者として活躍しました。この作品が公開されたのは1984年、この時には、まだ予断を許さない状況ではあったものの、ポルポト政権は終わっていたのですがエンディングでは「今、尚続いている」というようなナレーションが入っていて、不適切です。何故こんなことにしちゃったのでしょうか。音楽もプロが担当してるはずですが手抜きが見え見え。予算の問題か、センスの問題か、いずれにせよ残念。・・その中で見所はハイン・S・ニョールの演技。素晴らしいです。実体験に勝るものは無いといったところでしょうか。映画を何度か見直してみて感じたことは、そもそも、アメリカがロンメルの後ろ盾になり、シアヌークを排除しなければ、国民の支持がクメールルージュに集まる事がなかったであろうということ、シアヌークが政権奪還を目論み、クメールルージュを利用しようとした事で、彼の支持者までが反乱軍に入ってしまい、軍が強化され、結果的にポルポト政権の片棒を担ぐだけの結果となってしまったこと。互いに利用して政権を奪い合う事だけで、国民の命の事を考えている者など一人としていない。この内戦は政権の奪い合いが生み出した最悪の悲劇であり、少数の人間の欲によってカンボジアは最低の道筋を辿ってしまったという結果を伝えているように思えます。どこを支持するのか、誰を支持するのか、人事ではありません。世界で起きている事や政治に無関心であることは、非常に危険なのだということを、考えさせられる作品でした。

キリング・フィールド HDニューマスター版 [DVD]

[監督]
ローランド・ジョフィ

[出演]
シドニー  サム・ウォーターストン
プラン    ハイン・S・ニョール
アラン    ジョン・マルコヴィッチ
ジョン    ジュリアン・サンズ
キンケード スポルディング・グレイ
リーヴス  クレイグ・T・ネルソン

★受賞★
[第57回アカデミー賞] 助演男優賞 ハイン・S・ニョール/撮影賞/編集賞
[第42回ゴールデン・グローブ賞] 助演男優賞 ハイン・S・ニョール
[第10回ロサンゼルス映画批評家協会賞] 撮影賞
[第50回ニューヨーク映画批評家協会賞] 撮影賞



[ブランを演じた俳優・ハイン・S・ニョール]
彼はカンボジアの医師であり当時クメール・ルージュの元で4年間もの間、強制労働に就いてた。彼もまた自分が医師である事を隠して生き延びた一人です。彼はこの作品より前は演技の経歴は無いにもかかわらず、当作品でアカデミー助演男優賞を受賞。彼の記憶と共に製作されたこの作品は、カンボジアで無念で亡くなった人々の物言わぬ声といえるでしょう。代弁者となった彼はその後も数奇な運命を辿ります。この後、映画に出演したり人権活動などに携わっていましたが、映画の公開から12年後、強盗により射殺され55歳の生涯を終えているのです。

[その後のポルポト]
1978年 4月から5月にはカンボジア軍がベトナムに侵入し、バチュク村の村民2,000名を虐殺。6月ベトナムも反撃開始。
1978年 ベトナムは避難してきたカンボジア人の中から人員を選びカンプチア救国民族統一戦線を結成。カンボジア国内に攻め込む。
1979年 ポル・ポト軍勢は敗走。ジャングルへ逃れた。ヘン・サムリン政権が成立。ポルポトはこの政権に対し武装闘争を続けた。
1981年 9月ポル・ポトとシアヌークと右派自由主義のソン・サンの3派による反ベトナム同盟が結ばれる。
1989年 ベトナム軍はカンボジアから撤退した。
1993年、国連監視下で自由化された総選挙により立憲君主制が採択→ポル・ポト派はこの選挙に参加せず連立政権に反発
1996年 ポルポト派の軍は堕落し規律も崩壊。数人の重要な指導者も離脱する。
1997年 ポル・ポトは政府との和解交渉を試みた腹心のソン・センとその一族を殺害した。
     →クメール・ルージュの軍司令官タ・モクにより「裏切り者」として逮捕され、終身禁固刑(自宅監禁)を宣告された。
1998年 4月にタ・モクは新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行った。
1998年 4月15日にポル・ポトは心臓発作で死んだ。しかし遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺の可能性もあると
      言われている。遺体は古タイヤと一緒に焼かれ埋められた。埋葬直後には墓は立てられなかったが、その後墓所が作られた。




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