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2013-05-25(Sat)

The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛/「建国の父」の心を継いだ娘

2011年 フランス
The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛ビルマ(現ミャンマー)の建国の勇士として今も国民から愛されている、アウンサン将軍
その娘として生まれたアウンサンスーチーの実録ドラマです。彼女の活動はまだ歴史に新しく、今でも民主化活動を続けています。そんな彼女の幼少時代、ビルマの国を語る父の記憶。


45587_20130525172322.jpg昔の話をしてあげよう。ビルマが黄金の国だった頃。

昔々ビルマはチークや黒壇の森が豊かな美しい国だった。
深い密林にはトラの姿があり緑溢れる草原には象もいた。
空の様に青いサファイヤ、お前の頬より赤いルビーが採れ
王女が夢見るより多くの宝石があった。

でも、とても悲しいことがおきた。

遠い国の兵士達がきて価値あるものを全て奪っていった。
そして、この国は貧しくなったんだ。

そしてある日、幼い彼女が大好きな父は殺されます。


年月は経ち、スーチーはイギリス人の夫マイケルと二人の息子と幸せにイギリスで暮らしていました。1988年、母の看病の為に祖国ビルマへ戻ります。長いこと祖国を離れていた彼女にとってこの国の現状はショックで耐えがたいものでした。軍事政権により民主主義運動を弾圧。迫害される人々、惨殺される学生。そんな中、民主主義運動家たちがアウンサン将軍の娘である彼女の帰国を知り選挙への出馬を訴えます。彼らの願いと国の惨状を知りえた彼女は立候補を決意します。しかし、それを機に軍事独裁政権からの圧力が始まります。

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マイケルと二人の息子は彼女に会う為に度々ビルマに訪れますが、政府の策略により家族の入国の拒否、息子達のパスポートの取消し、電話回線切断など、次第に家族から孤立させていきます。軍事政権との戦いだけではなく彼女自身の孤独な心との戦いでもありました。

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軍事政府はスーチーに選挙活動をさせまいと足止めさせた際に、銃を向け威嚇します。しかし、スーチーは銃をかまえた大勢の軍人の前を歩き出します。このときに軍人が判断を誤り発砲命令を出す可能性だってあったでしょう。号令を掛けた本人が発砲しなくとも号令者の後ろにいた大勢の兵士が発砲していた可能性もあります。スーチーの父が殉教者となり長年、国民に強い影響力を持つことを目の当たりにしていた政府は、娘まで殺せば国内の暴動はもとより世界的な批判が起こる事が確実であり脅威と考えていました。

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彼女の武器は「自分を殺せない」(だろう。)という予測だけでした。万が一そこで殺される事になっても彼女は自分の使命はそこまでと覚悟を決めていたのでしょう。これを期に軍政府は選挙活動を阻止しようとスーチを自宅軟禁にしてしまいます。

翌日、ニュースで妻が銃を向けられたことを知ったマイケルは、とても平常心ではいられませんでした。

スーチーはさらに捨て身の戦いをします。自宅軟禁になってすぐ夫マイケルが入国をしたとき彼女は、同士が牢獄に入れられ拷問を受けているなら自分も逮捕せよとハンガー・ストライキを起こしていました。このままでは本当に死んでしまうと考えたマイケルは軍事政府に出向き、仲間の拷問をやめればハンガーストライキをやめるという条件を出します。世情を顧慮した政府はその条件をのみ仲間の拷問を止めます。

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イギリスに帰国したマイケルは考えました。スーチーの活動を世界に知らしめる事で彼女の身の安全と、活動への理解と共感を深め、民主化を進める手助けになるのではと。彼は、ノーベル委員会にスーチーの現在置かれている現状を伝え、選考委員会に彼女が以前書いた父のアウンサン将軍についての論文や彼女の活動についての資料を送ります。

そして、選挙は始まります。国民民主連盟 圧勝。自宅に軟禁されていたのにも関わらずスーチーは大差で勝ったのです。
しかし軍事政府は政権移譲をする事も無く彼女の軟禁を解く事もしません。

そんな中、夫の尽力により彼女は軟禁状態のままノーベル平和賞を受賞します。これにより世界中の支持が彼女に集まります。スピーチは長男が行いました。スーチーは自宅の電気を切られた暗い部屋の中で懐中電灯の電池を入れたラジオでそれを聞き、涙を流します。

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その後、日本が関与してスーチーは軟禁状態から開放されます。

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強い使命感と共存して、母として妻としての彼女の苦しみはさらに続きます。夫が癌に侵され、彼のビザは何度申請してもおりることがありませんでした。命が僅かとなった時には流石に彼女はイギリスに帰国を考えましたが、マイケルもそれを望みません。一度出国したら最後、二度と再入国ができないことは明白でした。いままでの多くの犠牲者と自身と家族の長い戦いが無になってしまう事を意味しています。
彼女は国の平和と自身のためにとどまることを決意します。夫を心の底から愛していたスーチーにとって、非常に悲しい決断でした。

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電話で話すことも回線を切られままならず。そんな中で夫・マイケルは息を引き取ります。

陰湿な軍事政府に相対して。非暴力による民主化を訴え活動する彼女の勇気とやさしさ、家族に対する想いに心を打たれ何箇所かのシーンで涙がでてくる作品です。政治に携わるという事ではなくとも、女性はいかにして生きるべきか。という事を教えられるようです。彼女の心の根底にある強さと、その生き様を記憶に刻んでおきたいと感じる。世界に誇れる東洋の女性、そしてその偉大な夫の存在も。

エンディングの曲はいかにもリュックベンソンらしい。家族愛の表現も甘すぎない仕上がりになっています。スーチーを演じたのはハリウッドでも活躍中のミシェル・ヨー。スーチーを演じるために減量をしてかなり痩せており、ビルマ語のセリフを習得して撮影に望みました。そして世界にこの国の現状を発信する貴重な作品となりました。スーチーは夫の亡き後も度重なる軟禁状態に置かれ、2011年にようやく政治活動を再開させる事ができました。そんな彼女も67歳(2013年現在)一日でも早く国の民主化が確信に変わり、今までの活動が報われることを祈らずにはいられません。

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彼女は今も 亡き夫が好きだった品種の蘭の花を髪飾りにして人々の前で手を振っています。

The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛 [DVD]

[監督]
リュック・ベッソン
[出演]
アウンサンスーチー    ミシェール・ヨー
マイケル・アリス      デヴィッド・シューリス
キム・アリス        ジョナサン・ラゲット
アレクサンダー・アリス  ジョナサン・ウッドハウス
カーマ            ベネディクト・ウォン 
ルシンダ・フィリップス   スーザン・ウールドリッジ



                             【アウンサンスーチー年表】


  年 月・日アウンサンスーチー氏の経歴 と ビルマ(ミャンマー)政府の動き
1945年6月19日 アウンサンスーチーは建国の父アウンサン将軍の娘としてビルマの首都ラングーンで生まれる。
1947年7月19日アウンサン将軍がイギリスと独立に向けた交渉の中、政敵であった前首相の一味により閣僚と共に暗殺される。
1948年1月4日ビルマは生前のアウンサン将軍らの尽力により「ビルマ連邦共和国」としてイギリスから独立した。
1960年-母親キンチーがインド大使に赴任、スーチはそれに伴われ、デリーに移り住む。
1962年3月2日ネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし憲法と議会を廃止。一党支配体制となる(ビルマ社会主義計画党(BSPP))
1962年-インドのデリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。(~63年)
1964年-イギリス・オックスフォード大学・セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得。(~67年)
1964年3月ビルマ社会主義計画党を除く全政党に解散命令が出される。5月には1回目の高額紙幣廃貨令が実施された。
1968年-ロンドン大学東洋アフリカ研究学院に務める。
1969年-ニューヨーク国連事務局で行政・予算問題諮問委員会の副書記を務める。(~71年)
1972年-オックスフォードの後輩マイケル・アリスと結婚。2人の息子をもうける。
1972年-ブータン外務省研究員、オックスフォード大学ボーダリアン図書館の研究員を務める。
1974年1月3日ネ・ウィン将軍が新憲法制定。自ら大統領に就任。国名を「ビルマ連邦社会主義共和国」に改める。
1981年11月9日ネ・ウィン将軍は大統領を辞任するが引き続きBSPP議長として傀儡大統領を操る院政を継続。
1985年-京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日。アウンサン将軍について歴史研究を進める(~86年)
1985年11月BSPPが2回目の高額紙幣廃貨実施。流通紙幣の大半が紙くずと化す。
1987年9月国連はビルマを最も貧しい国のひとつ(最貧国)に認定。独裁政治による経済政策失敗により民主化運動が頻発。
1987年9月BSPPが3回目の高額紙幣廃貨実施。国民の怒りが爆発し学生を中心に反政府運動が激化。
1988年4月スーチーは病気の母を看護するためビルマに戻る。
1988年7月23日ネ・ウィン氏が(ビルマを最貧国にした責任を取り?)BSPPの議長を辞任、サン・ユー氏も大統領を辞任。セイン・ルイン氏が大統領となり政権を引継ぎ、戒厳令を敷く。
1988年8月8日学生をはじめ全ビルマ国民による反政府運動(8888民主化運動)が最高潮に達し、BSPP軍は武力でこれを鎮圧。
1988年8月12日セイン・ルイン氏が大統領を辞任。
1988年8月26日スーチー氏はシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行い民主主義政府を要求。
1988年9月18日国軍によるクーデター勃発、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権が誕生。国家法秩序回復評議会SLORCを発足。これを中心に国家運営を始めた。SLORCは民政移管までの「暫定政権」と規定し複数政党制を認め2年後の1990年に選挙を行うことを約束。しかし民主化運動は徹底的に弾圧され1000人以上が殺害される。
1988年9月24日スーチー氏は1990年に予定された選挙への参加を目指し、全国遊説を行う。国民民主連盟(NLD)が設立され、総合書記長に就任。
1988年12月27日母・キンチー没する。葬列に多くの支持者が参列し、軍政・SLORCに反対する平和的抗議と化した。
1989年4月 5日イラワジデルタで遊説中にライフルをスーチー氏に向けるよう命令を受けたSLORC軍と対峙、現場にいた少佐が介入し彼女の暗殺は回避された。
1989年6月18日SLORCは英語の公式国名を「ミャンマー連邦(Union of Myanmar)」首都「ラングーン」を「ヤンゴン」に改称。
1989年6月21日スーチー氏らは1988年の蜂起で殺害された反対派の追悼式に出席。その際、SLORC軍は学生を数名拘束した。
1989年7月20日SLORCは起訴や裁判なく3年間拘留できるとした戒厳令に基づきスーチー氏を自宅軟禁。その際に自宅にいた学生達を取調べするとして連行。これに抗議した彼女はハンストを行う。
1990年5月27日総選挙が実施され国民民主連盟(NLD)は議席の82%を獲得し大勝する。しかし軍政側は「民政移管のための堅固な憲法が必要であり政権移譲より先に新憲法制定を優先させる」と、その時期を引き延ばす作戦にでる。NLDがこれに反発すると、SLORCはNLDの選出議員の投獄及び資格剥奪などを行ったため国際的に激しい非難を浴びる。
1990年10月12日ラフト人権賞を受賞する。(軟禁中により本人不在)
1990年12月19日国連のデクレアル事務総長がスーチー氏の釈放を求める。SLORCは「夫や子供と一緒にいたいなら人道的な見地から彼女の出国を認める」と声明を出した。
1991年7月10日サハロフ賞(ヨーロッパ議会の人権賞)を受賞。(軟禁中により本人不在)
1991年8月10日SLORCは、スーチー氏を起訴・裁判を行わず5年間拘留できるよう日付を遡り法律を改正した。
1991年3月NLDによりスーチー氏は総書記を解任される。
1992年-ノーベル平和賞を受賞。賞金130万ドルはビルマ国民の健康と教育の為の基金に使われた。
1992年4月23日ソオ・マウン氏が解任、タン・シュエ将軍がSLORC議長に就任。
1992年12月NLDによりスーチー氏は党籍を剥奪 される。
1993年-「恐怖からの自由(日本語訳『自由』集英社)」などのスーチー氏の著作がロンドンで発行される。
1993年1月9日SLORCは制憲国民会議を発足。しかし招集されたメンバーのー殆どがSLORC関係者であった。
1994年1月21日SLORCは現行法でスーチー氏は6年まで拘留可能だと拘留を続けた。拘留は通常5年間だが、外務・内務・軍事の3大臣からなる3者委員会の決定で1年延長できるとした。
1994年2月14日国連DP住民代表のヨハン・ラヒーム氏とアメリカの議員ビル・リチャード氏とニューヨークタイムズ記者フィリップ・シェノン氏が家族以外で初めてスーチー氏を訪問した。
1994年9月20日スーチー氏はSLORC・タンシュエ将軍とキンニュン将軍と会談する。
1994年10月28日スーチー氏とキンニュン将軍との2度目の会談が迎賓館で行われた。
1995年7月10日刑期満了のためスーチー氏は自宅軟禁解除となる。 その週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、軍政によって中止に追い込まれた。
1995年10月10日スーチー氏はNLD総書記に復帰 (NLDは、SLORCから指導部変更を禁止されていた。)
1995年11月28日新憲法策定のための制憲国民会議に招集されたメンバーが殆どSLORC関係者であった為、スーチー氏は軍政首脳との直接対話を要求していた。しかしSLORCはこれに応じなかった。その為、NLDはSLORCに対し国民会議から引き上げると通告する。
1995年11月29日NLDは制憲国民会議のボイコットを決断。SLORCは対抗措置としてNLD側委員を除名する。会議は事実上休眠状態となる(2003年に再開)。
1996年5月20日SLORCは国営新聞を利用しスーチー氏やNLDの幹部に対し醜聞のニュースを流し、彼女が家の外で行っている集会の中止を命令。出席予定だったNLD党員の一掃が行われた。
1996年7月スーチー氏は記者団に対し、ビルマ民主主義の復興の為に力を注ぐと述べ、「ビルマに投資を」と考えている外国企業に対しては民主主義が回復されるまで待つように要請した。
1996年9月26日NLD党員159名と党支持者414名がNLDの会議前に逮捕される。
1997年5月21日アメリカ政府はビルマの人権侵害問題を受けて制裁措置をとる。
1997年7月23日ビルマがASEANの正式加盟国に認定される。
1997年9月アウンサンスーチー氏が自宅前での集会を認められる。
1997年11月15日軍事政権「国家平和発展評議会」はSLORC→SPDCに改名 軍事政権「国家平和開発評議会」
1998年7月23日NLD関係者に会う為ヤンゴンを出ようとしたスーチー氏はSPDC軍から妨害され数日間車中で過ごす。5日間の膠着状態が続き軍は彼女の車を包囲し家に強制送還してしまう。
1998年8月12日スーチー氏はNLD党員に会うため再び首都郊外、ヤンゴンの西のバセインに向かったが前回と同様、SPDC軍により再度足止めされ水や食料の補給を許されず断念する。
1998年9月16日NLDは1990年の総選挙結果に基づく議会の開催を幾度もSPDCに申し入れたが応じなかった為、それに対抗しスーチー氏ら議員10人で構成する国会代表者委員会(CRPP)を発足。独自の新憲法草案を作成しSPDCが出す各種法令に正当性がないことを指摘。2003年までNLDは民主化を要求し続けるがSPDCはこれを無視し続けた。 
1999年3月27日夫マイケル・アリスが前立腺癌で死亡。ビルマ入国を求めていたマイケルは1995年以降、再三の入国要請を軍当局が承認することは無かった。
2000年3月the Freedom of the City賞を受賞。息子のキム・アリスがアイルランドへ行き代わりに賞を受け取った。
2000年8月24日ダラーのNLD青年部への訪問を阻止される。抗議をするも強制連行され、9月2日まで軟禁状態に置かれる。
2000年9月2日NLD党本部軍当局による家宅捜索を受け大量の文書などが押収され党員数名が逮捕される。家宅捜査は「党員の一部がテロ行為に関わっている」とNLDを弾圧するときに何時も使っている理由だった。
2000年9月15日スーチー氏は、外部移動を妨害し、監視下に置こうとするSPDCに対し「私は法的に何ら制限を受けていない。それを明確にする」と、数日内にヤンゴン外へ出ることを公言した。
2000年9月21日マンダレー行きを再度拘束される。SPDC軍はこれで4度ヤンゴン外への移動を制止。NLD党員92名が拘留される。以降、米英仏やノルウェー、EU各政府はSPDCに対しNLDの政治活動の権利と対話を行うよう求める。
2000年9月24日スーチー氏は再度自宅軟禁となる。彼女を含む党指導部が一時的な自宅軟禁下におかれる。
2000年10月ラザリ・イスマイル国連事務総長特使(ビルマ問題担当者)らが仲介しスーチー氏と軍当局との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まる。
2000年12月7日米国のクリントン大統領が市民名誉賞をビルマのスーチー氏へ授与。息子のアレクサンダーが代理で受け取る。
2001年1月4日ラザリ・イスマイル氏が、軍当局とスーチー書記長それぞれと会い対話を行った。(~9日)
2001年1月24日NLD20名の活動家が釈放。スーチー氏の自宅軟禁状態は続き面会は制限。EUの使節団が2001年1月28日から30日までビルマを訪問する予定にあった。
2001年1月30日EUの代表団が自宅でスーチー氏と会談。SPDCNLDとの膠着状態に解決の糸口を見つける事が目的であった。
2001年2月27日米国の政府関係者がスーチー氏及び、SPDCと会談。
2001年8月28日ラザリ・イスマイル氏が5度目の訪問。SPDCとスーチー氏との歴史的対話の促進の為の会談を行った。
2001年9月9日ノルウェーで、ノーベル平和賞の100周年を記念しアルフレッド・ノーベルと7人の平和賞受賞者の肖像を描いた新しい切手のシリーズを製作。そのうちの一人に選ばれた。
2001年11月29日ラザリ・イスマイル氏が6度目の訪問。NLDSPDCとの間の和解の為の会談をスーチー氏と行った。
2002年1月30日SPDC高官と非公開会談を行った。
2002年5月1日SPDC指導部と非公開会談を行った。
2002年5月6日9ヶ月の自宅軟禁は解除となる。SPDCの報道官ラミン大佐は、「今日という日はビルマの人々と国際社会にとっての新しい1ページ」となるだろうと述べた。
2002年-スーチー氏はNLDの党組織再建のため各地の遊説をはじめる。
2002年5月14日スーチー氏と久米宏が電話対談を行い、その音声がテレビ朝日系列の「ニュースステーション」で放送された。
2003年2月6日アメリカに本部がある自由フォーラム基金「自由精神賞]がスーチー氏に贈られた。全額が個人に送られるのは前例がなく正式には3月20日に授与された。スーチー氏は帰国できると確信できるまで国外には出ないとしていたため、息子のアレクサンダーが代理を務めた。(金額は100万ドル)
2003年5月30日スーチー氏らNLDがビルマ北部を遊説中に軍政側を支援している団体USDAの襲撃に遭い、活動家や支援者ら70人以上が殺害され、スーチー氏も竹の棒で殴られ負傷する。(ディペーイン事件)彼女は軍施設に連行。SPDC軍は、多くのNLD党員を逮捕・拘束。スーチー氏の他・副議長らNLD執行部を投獄または自宅軟禁とした。
2003年8月SPDCは穏健派のキン・ニュンの主導によって民主化に向けた「ロードマップ」を発表。憲法制定のための国民会議が開催するなど民主化に向けた動きを見せるようになった。
2003年-三度目の軟禁状態に置かれる、外部からの訪問はほぼ完全にシャットアウトされてしまう。
2003年9月子宮疾患の為、手術入院をする。退院後自宅に移されるが自宅軟禁は続く。
2004年10月キン・ニュンが首相解任。SPDCからは「健康上の理由」による引退と発表。しかし穏健派であり民主化に積極的な人物だった為、強硬派との政争の結果失脚したとみられている。この頃のSPDCは、以前から両者の仲介を行っていた国連大使を通じスーチー氏との交渉を準備していたといわれていたが穏健派が一掃されたようなかたちになった。
2004年-強硬派ソー・ウインが新たに首相に就任。軍は引き続き先のロードマップを推進する声明を出すが、強硬派が台頭していることから予断を許さない状況が続く。
2004年11月27日SPDCが、スーチー氏の自宅軟禁を1年間延長すると発表。
2005年11月27日SPDCが、自宅軟禁を6ヶ月間延長すると発表。
2006年5月19日ガンバリ国連事務次長と1時間の面会が実現。
2006年5月26日SPDCが、自宅軟禁1年間の延長を通告。
2007年5月25日SPDCが、自宅軟禁1年間の延長を通告。
2007年9月23日仏教僧侶らの反政府デモが広がるのに伴い、軟禁先を自宅からインセイン刑務所に移されたとの情報があった。
2007年9月30日イブラヒム・ガンバリ国連事務総長特別顧問と会談。
2007年10月24日ソー・ウィン首相が病気により死去。ティン・セインが首相となる。
2008年4月アメリカにて議会名誉黄金勲章授与。
2008年5月10日SPDCが新憲法草案で「配偶者及び子が外国人又は外国市民権を有する国民には選挙権を認めない」との条項があり前夫が外国人のスーチー氏の被選挙権を剥奪していた。しかし諸外国の抗議により政府はこれを撤回。同月23日アウンサンスーチー氏は事前投票したと伝えられた。
2009年5月アメリカ人がスーチー宅に侵入。それが軟禁条件違反に当たるとし「国家転覆防御法」違反の罪で起訴される。
2009年5月18日インセイン刑務所で裁判が始まる。規定で有罪なら禁固3-5年が科せられ、自宅軟禁の最長が6年であり同月末で軟禁が解かれる予定だった。何かにつけて軟禁を長引かせようとするSPDCに対し、同日NLDが適正な裁判を求める抗議行動を行う。また、前日17日には、ニコール・キッドマン、ロバート・デニーロ、ブラッド・ピット、ジョージ・クルーニー、デビッド・ベッカム、マドンナら著名人44人が、アウンサンスーチー氏の解放を求める共同声明を発表している。
2009年5月26日SPDCは軟禁期限は同年11月との声明を出し、スーチー氏と弁護士にも軟禁解除を伝えた。その上で8月11日、国家転覆の罪で禁固3年の実刑を言い渡し、直後に執行猶予と1年6か月分の特赦を付けて再度の軟禁状態に置いた。侵入者のアメリカ人は禁固7年の実刑判決を受けた。
2010年11月3月期限満了となり軟禁解除。
2011年3月タン・シュエ将軍は、大統領の地位をテイン・セイン首相に、また国軍最高司令官の地位をミン・アウン・フラインに譲った。これまでと同様、政治に影響力を行使すると予測されたが退任後はほぼ口出ししていないといわれている。
2011年3月新政権が発足。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であったSPDCは解散。軍政に終止符が打たれたが新政府は軍関係者が多数を占めており軍政支配が継続されるのではないかと懸念された。
2011年6月28日スーチー氏は新政府から政治活動停止を通告される。
2011年8月12日スーチー氏は政府側と会談し両者は国家の発展の為、協力していく事で合意。地方都市での政治活動を再開。
2011年-2011年映画 「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」が公開。
2011年10月12日政治犯を含む受刑者6359人が恩赦によって釈放された。
2011年11月25日NLDは長年認められなかった政党(野党)としての再登録が承認された。
2012年1月10日NLD中央執行委員会議長に選出
2012年1月13日フランス大統領が、レジオンドヌール勲章コマンドゥール(3等)の授与を電話で伝える。
2012年1月25日パキスタン大統領より、ベナジル・ブット賞を授与される。
2012年2月日本政府はヤンゴン郊外のティラワ港経済特別区のインフラ整備を請け負った。ミャンマー側もかねてから日本に開発をゆだねたいという意思をテイン・セイン大統領が示していた。
2012年2月国際連合教育科学文化機関が、2002年に授与が決定していたマダンジート・シン賞を授与する。
2012年4月1日議会補欠選挙にNLDより立候補当選を果たす。5月正式に議員に就任。
2012年6月16日ノルウェー・オスロにて、1991年に受賞したノーベル平和賞受賞演説を行う。
2012年9月米国のホワイトハウスを訪問。バラク・オバマ大統領との会談を行う。
2012年11月1日バラク・オバマ大統領が、現職の大統領としてはじめてミャンマーを訪問。欧米からの制裁もほぼ解除される。
2013年4月13日外務省の招聘を受け来日。日本政府要人(安倍首相や皇太子さまなど)との会談を行う。(~19日)
2013年5月25日安倍首相がミャンマーを訪問し、スーチー氏と対談。ミャンマー民主化への支援を表明する。

       ・表現や日付などの正確さに欠ける可能性があります。修正・加筆をしていきますが転載はご遠慮下さい。

◆内部関連記事◆

女性ノーベル平和賞受賞者、母の象徴マザーテレサの物語→マザー・テレサ



★外部関連記事★

アウン・サン・スー・チー女史 ノーベル平和賞受賞演説「大好きな世界人権宣言の前文から力をもらった」
Everyone says I love you !ビルマ(ミャンマー)の民主化運動指導者、アウン・サン・スー・チー氏が2012年6月16日、ノルウェーで、1991年に受賞したノーベル平和賞の受賞演説を行いました。受賞から21年目のことです。アウン・サン・スー・チー氏は、「ノーベル賞が自身の解放だけでなく、民主化運動に対する世界の関心を集めてくれた」と感謝の言葉を述べました。また、「ミャンマーにはまだ良心の囚人が大勢いることを覚えていてください」とも。

『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』ミシェル・ヨー「愛だけで作った映画」ミシェルはスー・チー氏の愛読書や彼女の著書も読破。200時間にも及ぶスー・チー氏の映像を入手し、容姿だけでなくスー・チー氏の話す英語とビルマ語もマスターするなどして役に挑んだそうだが、役作りについては「この映画は愛だけで作った映画です。実際にビルマで置かれている苦境を考えれば苦労は何でもありません。役作りで一番苦労したのは10キロ痩せたことです」と語った。

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プロフィール

ちゃのりん

Author:ちゃのりん
映画から歴史を探るのが好きです。
俳優&映画紹介と、ノンフィクション映画の実在の人物像も探ります。


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